音楽はただ音を楽しむだけのものではなかった

モスクのなかのSilent Passion

【Silent Passion No.1】

イスラームのモスクのなかで

イスラームの装飾は精緻で美しい。とても美しいと思うが、それが好みかというとそうでもない。ぼくはやはり日本的な「間」の美しさに惹かれる。なのでイスラームの華美な装飾は感覚的に濃密過ぎる。しかし、これはすごい世界だと思う。そのすごさを、ぼくはトルコのモスクで体感した。以来、それまでとはちがった眼でイスラームの美意識世界を観るようになっている。

 

1978年に2ヶ月ほどトルコを旅した。イスラーム世界ではどんな小さな街にもモスクがある。

他のイスラーム国に比べ、トルコは異教徒に対して寛容でモスクの中に入ることを許してくれる。

ぼくは以前からモスクで音を出したらどんな音になるんだろうと妄想し、好奇心がうずいてた。

 

たしか最初は、地中海に面したシリフケという小さな街のモスクからだったと思う。

ぼくは竹製の笛を1本持ってモスクを訪れた。以前にインドで笛の先生から買ったバンスリーという竹笛だ。

 

モスクにはイマームと呼ばれる礼拝指導者がいた。40代くらいの落ち着いた雰囲気の人だった。礼拝の時間以外なので他に誰もいない。ぼくは身振り手振りと、わずかな片言のトルコ語で気持ちを伝えた。トルコは学校で習う第一外国語はドイツ語だ。しかも日本と同じで話せる人が少ない。それでもぼくがやりたいことはすぐに伝わったようで、意外にあっさりと許可してくれた。

 

音楽的モスク体験

モスクの中にはミフラーブと呼ばれる壁が窪んだ一面があり、礼拝はそちらに向かって祈りを捧げている。

ぼくもそのミフラーブへ向き、一呼吸してから笛を吹き始めた。

一音だしてみてその反響音に驚いた。バンスリーの音色は元々とても柔らかいのだが、モスクの大理石とタイルに当たって返ってくる反響は、音の輪郭がはっきりとしていて硬質な感じになっている。またモスクはシンメトリカルで複雑な構造をしているので反響は幾重にもなる。倍音が干渉して重なり、なにか別次元の音のように聴こえてくる。

 

反響してくる音に重ねて、また次のフレーズを吹き、さらに複雑になった音に合わせて次のフレーズを探す。もちろん即興だ。これはとてもエキサイティングで不思議な音の世界に入っていくことができた。モスクの構造は音響効果的にも、かなり意図的に作られているのだと感じた。

 

モスクは人を共感覚者にする作用もあるのかもしれない。笛から流れる音に色が見えてくる。さらに、描かれているさまざまなパターンやカリグラフィーは平面に描かれているのだが、それらが立体的になり、動くように見え始めた。

きっとイスラーム教徒にとって、モスクはコーランの教えをさまざまな象徴を通して造形的に伝えるための、変性意識状態へと導く装置なのだろう。ぼくはイスラーム教徒ではないが、それでも多くの神聖な宇宙的な教えが託されていることは、無宗教者のぼくにも、じかに心深くへ伝わってくる。ぼくはここで音楽はただ音を楽しむものだけではないことに気づかされた。

 

歴史の集積としてのイスラーム芸術

後に学んだことだが、モスクにこうした効果が仕組まれていることは驚くことではない。

今でこそ科学技術や学問は欧米が最先端となっているが、8~13世紀の間のバクダードを首都としたアッバース王朝では、こうした文化知識レベルは世界に誇る最高水準になっていたという。

 

その大きな要因として50年にわたるアラビア語への大翻訳運動があった。

これによってギリシャ語・シリア語・中世ペルシャ語、サンスクリット語などで書かれた古代オリエントのあらゆる文献がアラビア語に翻訳された。学者たちも招聘され学院があちこちに作られていた。 哲学、医学、建築、天文、占星学、美学、音楽理論などさまざまな知識や技術が、古代オリエントからイスラーム世界へ移されたのだ。

グノーシス主義や新プラトン主義なども深く研究されていて、その注釈書が数多くこの時代に書かれている。イスラームにはそうした文化が醸成されていた。

 

たとえばイスラーム世界でよく見かけるアラベスク模様もそうした智慧のひとつだ。

アラベスクの幾何学的パターンについてこう書かれている。「アラベスクとは、常に変化するリズミカルな運動の表現であり、われわれはその流れの中で終わりを知らず、また始まりも予知できない。それは調和的で静的かつ動的なものなのだ」

こうした深遠な教えがイスラーム芸術のなかのそこここに秘されている。

  

モスクの中はSilent Passionで溢れている

シリフケの後、ぼくはあちこちのモスクで演奏した。 さすがにイスタンブールのアヤソフィアのような大聖堂には常に観光客がいるので笛を吹いたりしなかったが、地中海側の南トルコのモスクを含めて十数か所で試してみた。それぞれのモスクは中心へ音が集約するという構造では同じだが、モスクごとに残響が違うので演奏してとても面白かった。

 

どこのモスクのイマームも親切にしてくれ、ときには演奏後にお茶を出してくれるイマームもいた。会話といっても片言なので一緒に静かにお茶を飲むだけなのだが、何かが通じ合っているような気がして、おだやかで心地のいい時間を過ごさせてもらった。

 

このモスクでの体験は、その後のぼくの通奏低音となった。そしてこれが今やっていることに深くつながっていると思う。

ぼくはいつも、言語を超えた世界を共鳴現象として理解する可能性について興味津々だ。

いまはTheディープ座という、静かで動的なSilent Passionが呼び起こされるような場づくりを試みている。

 

 

先ほど、モスクで笛を演奏してみたいとお願いしてみると、意外にあっさりと許してくれたと書いた。

なぜ「意外に」かというと、じつはイスラーム教の世界では、祈りの場と音楽とは微妙な関係にあるからだ。それについてはまたの機会に書こうと思う。

 

アウェアネスアート®研究所 主宰  新海正彦