吉福伸逸研究Ⅱ

ジャズからトランスパーソナル心理学へ

ベーシスト吉福伸逸

 吉福さんはセラピスト、著作家、翻訳家、思想家として知られていますが、

最初はジャズミュージシャンとしてスタートしました。

 

高校でジャズベースを始め、大学(早稲田)ではすでにピアニストの

山下洋輔らとともに活躍をしています。

 

音楽を極めるため大学を中退し、アメリカのボストンにあるバークリー音楽院へ入学。

ここでも学生のときから頭角をあらわし、一流のミュージシャンたちと共演しはじめ

音楽漬けの毎日だったといいます。

 

そんなジャズどっぷりの生活がしばらく続きましたが、

あるとき天才的ピアニストと出会い大きな挫折感を味わうことになります。

かれの出す音が理解できないという初めての体験でした。

 

音楽の生活しか考えていなかった吉福さんは2年間の葛藤の末、

ジャズミュージシャンをやめることにしました。

これはよほどの決断だったようです。

 

 

サンスクリット語と東洋哲学の習得へ

ジャズと決別し、アメリカを離れて中南米から南米を放浪します。

途中、シャーマニズムなどにも触れながら2年ほど旅をした後、

再びアメリカに戻り、今度は西海岸へ向かいます。

 

カリフォルニア州立大学バークレー校でサンスクリット語と東洋哲学を学びはじめました。

習得がとても難しいといわれるサンスクリット語を3年半でほぼマスターしたといいます。

 

その当時のアメリカ西海岸はカウンターカルチャーの全盛期。

禅センターに多くの人が集い、ドラッグカルチャー、チベット密教、

キリスト教神秘主義、スーフィズム、シャーマニズムなどなど、

さまざまな精神文化が錯綜していました。

 

 

 

カリフォルニアの精神文化を吸収して

精神文化のメッカとなっていたエサレン研究所では、

熱いディスカッションが行われ、次々と新たなセラピーやワークが生まれていました。

 

吉福さんは、サンスクリット語と東洋哲学を学びながら、

こうしたさまざまな文化を吸収していきます。

西海岸の精神文化へ自分の身を投げ込むようにして実体験していた、といいます。

 

こうしてミュージシャンとしてアメリカへ渡ってから10年が経ち、

その間一度も帰らなかった日本へ戻ることになります。

 

 

吉福伸逸見研究Ⅲ 》》》

共著「吉福伸逸の言葉」》》》

 

アウェアネスアート®研究所 主宰 新海正彦