耳を澄まし心を虚しくする
もののあはれ
前々回のブログで「かなし」は「兼ぬ」が語源だと書いた。
自分と兼ねてしまいたいほどの気持ちと、それが「し兼ね」て叶わないという切なる思い。
古語の「かなし」は本来、 自分の力ではとても及ばないと感じる切なさの情感を含んでいた。
その背景には「もののあはれ」という美意識が存在する。
「もののあはれ」と言われても、古典の授業でならったことを思い出すくらいで、日常生活にはほど遠く感じる人が多いかもしれない。
しかし自覚していようといまいと、日本という自然環境が醸し出す「場」に生まれ育ったぼくたちには、「もののあはれを知るこころ」が根底に脈々と流れている。
「もののあはれ」を知る
「もののあはれ」は、平安時代に使われはじめた美意識で、単に耽美的で懐古主義的な表現ということではなく、その後の日本文化に影響を与えている重要な価値観だ。枯れていくことや、欠けていくことにも価値を見いだす「侘び」「寂び」といった美的理念も、ここから生まれている。
もともと「あはれ」は、ああ、はれという感動詞をふたつ重ねたことばで、繊細さや優美さを表していたという。「あっぱれ」というのも同じ「あはれ」が由来だ。
「もののあわれ」という表現は、立派さや美しさを愛でる心から、「憐れ」「哀れ」までの色合いを含んだ鮮やかなグラデーションを持つことばだと思う。
「もののあわれ」の哀調
「もののあわれ」の哀調については、近代哲学者の九鬼周造が端的に述べた一文がある。
【万物は、有限な他者であって、かつまた有限な自己である。それがいわゆる「もののあはれ」である。「もののあはれ」とは万物の有限性から、おのずから湧いてくる自己内奥の哀調にほかならない。】
これはすこし哲学的な表現だが、九鬼が言いたいことは、みずからを含んだ万物が有限であることを感受した哀調が、「もののあはれ」であり、それはまた「兼ねることのできない」永遠に対する思慕のような哀調だということだろう。
九鬼はヨーロッパでハイデガー、フッサール、またベルグソンなどから直接まなび、またかれらからも高く評価されていた、日本人としては稀有な哲学者だった。
まさに「生」と「存在」の哲学的論議が沸騰する只中にいたのだが、彼はそれにもあきたらず、帰国後は東洋思想、無の思想にも取り組んでいた。九鬼周造の仕事はあまり知られていないが、現代の日本人にも多くの示唆を与えてくれるように思う。
心を虚しくする
何事にまれ 感ずるべき事にあたりて 感ずるべきこころをしりて 感ずるを もののははれをしるとはいふ
〔石上私淑言 本居宣長〕
ぼくは、「もののあはれを知る心」は耳を澄ますということではないかと思っている。耳を澄ませ心を澄ます。こうして心を虚しくしていくことで、ものごとの表層に顕われている姿のさらに奥へ分け入っていく。今まで触れたことのないつながりを感受し、そこにある関係性に美しさを見いだす。
そこでは思考を展開していく論理とは質の違った、直観と感受性による「情緒的知性」とでもいうべき知性が発露している。
やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことの葉とぞ なれりける〔古今集 紀貫之〕
思うに、これが「もののあはれを知るこころ」の真髄なのかもしれない。
前々回の記事 かなしみの美学 》》》
アウェアネスアート研究所 主宰 新海正彦