トランスオクシアナ文明

スーフィズム~ミックスカルチャーの秘密

バルフの宿

アフガニスタンにも緑茶がある。チャイ・シーアという。シーアは緑という意味で、あのシーア派のシーアだ。緑茶のポットにはカルダモンが一つ入っている。新鮮なカルダモンの高い香りと緑茶の風味がまざり、乾燥しきった風土に清涼感をあたえてくれる。

 

ここはアフガニスタンの北にあるバルフという村の宿だ。部屋は日干し煉瓦でできていてとてもシンプル。鮮やかなアフガン織りの絨毯が敷いてある。朝はいつも宿の主人がこの茶を出してくれる。中庭でお茶をいただきながら眺める空は、恐ろしく透明で青い。2ヶ月間、1度も雲をひとつも見ていない。

 

バルフの村からすこし歩くと巨大な廃墟がある。直径が1kmもある円形の城壁跡だ。城壁といっても小高い丘のようなもので、のぼってみると中はさら地だ。草がまばらに生えていてヤギが草をはんでいた。バルフはこの廃墟以外、何もない村なのだが、ここの歴史を考えると逆にこの「何もなさ」に驚いてしまう。

 

 

トランスオクシアナ文明

トランスオクシアナ文明をご存知だろうか。

インダス文明とほぼ同じ時代で、世界第五の古代文明と呼ばれている。起源はBC2600年というから、いまから4500年以上前のことだ。

中東のアラル海にそそぐアムダリア川とシルダリア川の間にあった。余談だが、なぜ湖なのにアラル海というのだろうか。

 

「トランスオクシアナ」という名は響きがかっこよくて好きだ。西側から見てアムダリヤ川(オクサス川)の向こう側という意味で、古来からギリシャ語で「トランスオクシアナ」と呼ばれていた。いまのウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタンの南部、アフガニスタンの北部あたりだ。

 

あまり知られていないのは、考古学的に最近わかったことらしく、研究はこれからだという。トランスオクシアナは、バルフのあるバクトリア、その西のマルディアナ、ホラズム、北のソグディアナという4つの地域からなっている。なかでももっとも栄えたバクトリアのバルフはトランスオクシアナの中心地だった。

 

 

■トランスオクシアナ第1章

今回はこのトランスオクシアナのミックスカルチャーぶりを書きたい。なのでここからはスピード感を持って、歴史を一気に突っ走ってみよう。バルフの盛衰を知れば、スーフィズムがイスラームだけでなく、なぜさまざまな宗教、思想のミックスカルチャー的なのかがわかるだろう。

 

トランスオクシアナが歴史として登場したのは、紀元前550年、ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)からである。

ハカーマニシュ朝ではゾロアスター教が広がっており、その中心地の一つがバルフだった。

ゾロアスター教の開祖のザラスシュトラはバクトリアの人だという伝説が古くからある。

 

ハカーマニシュ朝は、紀元前330年にアレクサンダー大王によって滅ぼされる。そしてこの地に100年ほど、ギリシャ人が定住し「グレコ・バクトリア王国」をつくった。

おどろくことに紀元前にすでに、ヘルメス主義をもったヘレニズム文化が中東にあったのだ。近年、バクトリアの神殿から黄金の「バクトリア遺宝」が発見され、かなり絢爛な文化だったことがわかった。

 

バクトリア王国はその後、遊牧民に征服されクシャーナ王朝が建国される。今度はバクトリアに仏教寺院が次々と建立されていく。

クシャーナ王朝はサーサーン朝ペルシャに併合される。クシャーナ朝は3世紀末で滅びてしまう。

 

 

トランスオクシアナ第2章

ここまでゾロアスター教、ヘルメス主義それに仏教が登場している。

ミックスカルチャーぶりはさらに続く。

ここへ、マーニー教が仏教をベースにこの地域を教化し始める。マーニー教は西のメソポタミアに出現した宗教だ。キリスト教、ゾロアスター教、仏教を総合した、当時、古代キリスト教の最大のライバルだった。

 

8世紀になると西アジア、中東は次々とイスラーム化されていく。

イスラーム教とともにスーフィーたちが現れ、イスラーム化の拡大とともにスーフィズムも少しずつ広がっていく。初期スーフィズムの中心となったのは大きくメソポタミアとトランスオキシアナだった。メソポタミアの中心地はバクダード、バスラ。そしてもう一つがバクトリア周辺の中心地、バルフだ。

 

このようにスーフィズムが登場したときには、すでにさまざまな他の宗教の修法体系や密儀、神秘主義的思想が存在していた。

マーニー教の僧院はスーフィーたちの修行場として活用されていたという。

 

 

 

■トランスオクシアナ第3章

この地で交じりあい醸成されたものが、西へ東へと伝播していく。旋回舞踊で有名なルーミーもバルフ出身者で、後にトルコのコンヤに拠点をおいた。

トランス・オキシアナは、侵略や占領をされはしても、つねにその上に新たな国が起こり、文化が堆積し醸成していた。

しかしその盛隆も13世紀、モンゴル帝国の襲来で突然の終焉を迎え、再び立ち直ることはなかった。

 

チンギス・ハーンの命令によって市街は破壊され、市民は虐殺された。これまで連綿と続いた知的堆積は壊滅的ダメージをうけ、人材もここで消失してしまう。メソポタミアのバクダードも同じように破壊され、古代オリエント系の文化と学問はここでほぼ全滅した。

 

しかしスーフィズムは難をのがれた。モンゴル帝国がスーフィズムを擁護したのだ。 もともとモンゴル文化にあったシャーマニズムに近いものを感じたのかもしれない。こうしてトランスオクシアナのスーフィズムは、呪術的要素や民間信仰的な要素を導入し、モンゴル文化のなかで新たな形で引き継がれていく。またイスラーム文化自体は、極端に単純化され、これもモンゴル文化に吸収されていった。

 

 

トランスオクシアナの終焉

ミックスカルチャーの話はここまでだ。ここからはそれが衰退し現在へとつづく歴史の話をすこし続けよう。

 

250年ほど続いたモンゴル帝国は、その後、オスマン帝国、ムガル帝国、サファヴィー朝という3大帝国にわかれ、おどろくことに、大衆化されたスーフィズムがこれらの帝国をささえるほど巨大化していく。もはやイスラーム神秘主義ではなく、原理主義をかかげるイスラーム民族主義へと変化していった。

 

しかしそれも、18世紀はじめには近代化の波に飲まれていく。これまで世界水準だったイスラーム文明は弱体化し、ヨーロッパ文明にその地位をゆずることになった。巨大化したスーフィー教団もそれとともに姿を消していく。

 

もっとも、こうしたなかでも伝統的な修行法をまもり、静かに瞑想するスーフィー教団はひっそりと持続していた。

19世紀末、神秘思想家のグルジェフはこの地で伝統的なナクシュバンディア教団からスーフィズムを学んだといわれている。秘された教えは連綿と続いていたのだろう。

 

トランスオキシアナの数千年を走り抜けてみた。

そしてバルフで繰り広げられた歴史の凄まじさを思う。これほどの歴史があったのに、いまでは村はずれに廃墟があるだけの小さな村なのだから。

 

 

再びバルフにて

話しを最初に戻そう。バルフの宿で、いつものように主人がチャイ・シーアを出してくれた。

そのときかれは唐突に「きょう宿は閉鎖された。悪いが出て行ってもらわなければならない」といいだした。

 

ソ連によるアフガン侵攻による制圧だった。村の辻々にはすでに銃をもったソ連の兵士が立っている。ぼくはしかたなく荷物をまとめた。じつは一度国境が閉鎖され、また開いたすきに、ぼくはパキスタンからアフガニスタンへ入ったのだが、今回はその時とは違う、侵攻による完全制圧だ。

 

「まだイランとの国境は閉鎖されていないらしい」という不確かな情報をたよりに、ひとまず西へ向かうことにした。といっても、ここの交通手段はトラックの運転手と交渉して荷台に乗せてもらうのだが、このシステムがまだ機能していたのでよかった。主人にこれからどうするのかと聞いたら「インシャラー(アラーのご意志のままに)」と天を指す。

 

その後アフガニスタンは混迷し、バルフはまた戦火にまみれていった。

ナクシュバンディア教団信者軍(JRTN)が結成されたが、実際はタリバーン勢力でスーフィズムとは別物の武装集団だ。

  

 

トランス・トランスオクシアナ

バルフの絵巻物のような歴史はここで終わり。

バルフにはこれまでに集積され、ミックスされた思想や修行体系の華々しい歴史があった。残念ながらその醸成された文化は幕を閉じる。

 

バルフでの文化は幕を閉じたが、それらは他の地域に飛び火し、世界中に伸展し種を落としていった。

時を越えて現代。いまは私たちが知ろうと思えば、いくらでもアクセスが可能な時代になっている。これについては絵巻物の第二巻、たとえば「バルフから時空を超えて」とでも題し、改めて書いてみたい。

 

アウェアネスアート®研究所 主宰 新海正彦

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