離脱時間の中で

意識のつなぎ目

離脱時間no.2

島をでる小さな冒険

ぼくは中央区月島で生まれた。実家はいまでも月島にあり、築地の場外で鶏卵問屋を営んでいる。それもあってか幼稚園は築地にある聖路加病院近くの「ヨゼフ幼稚園」に通っていた。月島の家からその幼稚園へいくには、今はもうない「佃の渡し」という渡し船で佃島から築地側へ渡る方法と、橋が両側に開いて上がる勝どき橋を渡る方法があった。

 

佃の渡しは2艘がつながっている。黒くて高い煙突のある蒸気船が、客や自転車を載せる船を引っ張っていく。渡し船に乗るには、まず隅田川に浮いているハシケへ降り、そこに着岸する渡し船に急いで飛び乗る。船とハシケの間にはかなり広い隙間があり、そこに長靴を落としてしまったことがあった。子どものぼくにはちょっとした冒険だ。

 

勝どき橋のほうはというと、こちらにも身の危険を感じる箇所がある。橋の中央だ。中央部分には支えとなる橋脚がない。厚い鉄製のギザギザは大型恐竜の歯のように噛み合っていて大型トラックが通るとかなり揺れる。鉄の歯のすきまから真下をのぞくと、一瞬、気が遠くなるほど下の方で河面が波打っているのが見えていた。

 

現在のぼくは横須賀にいるのでめったに月島へ行くことはないが、先日久しぶりに月島へ立ち寄った。築地の老舗でお昼に寿司を食べることになり、月島から築地まで歩いてみることにしたのだ。地下鉄で月島駅まで行き、「もんじゃストリート」となった西仲通りをぬけて勝どき橋へ。

勝どき橋はぼくが中学2年の1967年までは開いていたが、いまはもう動力の電源も切られ、橋は固定されていてもう開くことはない。

 

橋の中央のつなぎ目に立ってみることにした。月島側には右足、築地側には左足をおいた。

こうして立つと、橋は固定されいるというが、それでもトラックが通ると激しく揺れる。

 

網膜に映る勝どき橋は、形は昔のままだが新しくペンキが塗られ、きれいに保全されている。まるで巨大なオブジェのようだ。

昔は一つもなかったウォーターフロントのビル群が借景となり、オブジェをさらに際立たせている。揺れとともに過去の記憶と現実が、妙に交じり始めた。

 

ワインボトルを揺すれば沈んでいた澱が浮き上がってくるように、古い記憶が浮上してくる。

そういえば子どものころ、ギザギザの隙間に靴を落としてしまったという記憶があった。これは何度もリフレインしていて、いままで確かな記憶だと思っていた。

しかし今ここに立ち、この光景を見ていると、この記憶が本当だったのかわからなくなってきた。見た夢が、現実に起こったこととしてすり替わってしまっているのかもしれない。

 

 

離脱時間の中で

 回転もそうだが、揺れは変性意識を引き起こしやすい。

この変性意識は、瞑想やドラッグ体験、大音量のなかでトランス状態になっているような特殊な意識と思われがちだが、変性意識には深い浅いの違いがあっても、誰でもふつうに体験しているものなのだ。 心理療法でもイメージ療法で用いられているし、正統派といわれているロジャーズも変性意識については肯定的にとらえた論文を書いている。

 

そういえば20代のころ、タイで知り合ったおしゃれなゲイのベルギー人兄弟が、横須賀の家にしばらく泊っていたのだが、ある日、

「あなたみたいな人のことを、ベルギーでは半分月に住んでいる人っていうの」と言われたことがある。たしかにぼくはいわゆる変性意識状態に入ることが多いほうだと思う。

 

そんな変性意識状態でしばらく橋の真ん中に立ち、現在と過去、外部視覚と記憶の映像の多層になった意識状態を面白がっていた。

なにかと何かがつながり、またスパークする。こうしたイマジネーションが刺激されれる時間を大切にしている。

 

とはいいつつ、そろそろ次の、味覚をたのしむ贅沢な時間が近づいてきた。

今日はこちらの寿司がメインだったのだ。

 

 

橋からみえる隅田川沿いの築地市場は「水産卸売場」なので、昼前でもすでに人の気配はない。

昔はここまで自由に入ることができた。カモメに餌をやるとみごとに空中キャッチするので、仕事を終えた人たちが魚の切れ端を投げて遊んでいたことを思い出した。

 

また来てみよう。 ここに来るとまた何かが起こりそうな気がする。

 

 

アウェアネスアート®研究所 主宰  新海正彦