潮目を見ておもう~魂の漂流術

漂流に、術?

離脱時間 no.1

潮目

ぼくの仕事場兼自宅は国道134号線沿いにあって海が近い。家からは相模湾がよく見える。家は少し高台にあるので海へ行くには国道へ下り、一車線だけのこの道を渡って急な坂を下りればそこが海だ。

きょうは浜近くから少し緑がかったの細い帯が沖まで続いている。海を眺めていると、ときおりこうしたはっきりとした潮目が見えることがある。潮目というのは潮流と潮流の境のことで、それぞれの海水の濃度などが違うことから表面の色が違って見えるらしい。

 

潮目を観察することは釣人にとって大事なことだという。両方の潮流からプランクトンがあつまる境界なので、そこに魚が群がっている可能性が高いらしい。ぼく自身は釣りをしないので釣価という視点で潮目を見ていないが、それでもいつまでも見入ってしまう。海はよく潜在意識にたとえられるが、たしかに潮目をボーっと見つめていると自分自身の内面の何かが励起されてくる。潮目によってその海面下にある大きな潮の流れがわかることと意識のありようが似ているからかもしれない。

魂の漂流術

ところでこのブログは「魂の漂流術」という。このタイトルはじつは 「魂の航海術」という言葉からヒントを得ている。

その出所は二つあり、ひとつはスタニスラフ・グロフという心理学者の「魂の航海術」という本。原題は「Beyond Death~The Gate of Consciusness」で現代版の「死者の書」といった内容だ。もう一つは、吉福さんが1993年に出版した「処女航海~変性意識の海原をいく」という本の告知文からだ。そこにはこう書かれている。「ヒトと自然が溶け合うハワイ・ノースショアでの波と光に包まれた暮らしの中から語り起こす秘められた魂の航海術」。ぼくはこのかっこいいフレーズから、さまざまなイメージが呼び起こされる。

 

去年、自分が今までしてきたこと、これからやりたいことなどについていろいろ思いを巡らせていたのだが、ふとこんなイメージが湧いてきた。

 

人はいのちの潮流に運ばれているような存在。どこへ向かうかはわからないが、余計なあがきをしなければその潮流に自然に運ばれていく。それは心地のよいもの。そして時として別の潮流と出会う。別の潮流との境、つまり潮目だ。そこに選択が生まれる。今まできた潮流に乗ったままでいくか、あるいは新たな潮流に乗るか。そのときに必要なのが自分を虚しくして決断すること。東洋の考え方や武術には「みずからとおのずから」というものごとの捉え方があるが、それに近いかもしれない。この自然の流れにまかせながらも自分の意志を働かせる。航海というより漂流というイメージだ。しかしただ漂流しているだけではなく、変化点では「術」らしきものも用いる。

 

このイメージの元には、恩師の吉福さんが以前に話してくれた「人生は何かに引かれているようなもの」という話があったと思う。こんなことを考えているうちに「魂の漂流術」という言葉が浮かび、これはいまの自分にしっくりくると感じたのだ。

漂流者

 ついかっこいいことを書いてしまったが振り返ってみると、別の潮流に出会うたびにぼくがやってきたことは、「自分を虚しくして決断する」とは程遠く、みっともなくジタバタとあがいてきたように思う。流れに翻弄され自分でなんとかしようとして苦しみ、その果てに諦めるようにして選択をした結果によってここまで運ばれてきたように思う。

 

 

こうして書いているうちに、さきほどの沖へつづく潮目の蛇行は、かたちを変えて家から見て右にある長者ヶ崎のほうへ移動している。

ひとは日々のなかであらたな潮流に出会い漂流術を磨いていく。ぼくはできれば、死ぬときには「自分を虚しくして決断する術」を極めてることを願っている。

 

 

アウェアネスアート®研究所 主宰   新海正彦